○SSの引き出し

・神に睨まれた子 -W


burnoutだと思っていた。それならばきっかけが見出せる。気が緩んだのだろう。でも本当にそれだけだろうか。先の頃から前兆はあったように思う。人が生きていくのは欲のためであり、生は幻だという考えを私は自身の若く甘い哲学もどきの核だと思った。今でもこの考えが変わらないということはまだ幼い証だろうか。やってできないことはないと、生きていると楽しいこともあると、ただ疲れているだけだと、何度繰り返されようとも馴染まないのも私が稚拙な所為かもしれない。ただこのideaはあまりに甘美すぎた。優しく許してもらえそうな気もした。それは犠牲sacrificeなどという輝かしいものではなかったが、魅惑的で救われるように思えたことに変わりはない。私の生は不要なのが本来であり、ただしがらみが多いのだと。人間は生まれてしまい増えてしまったのだ。唯一、生のプログラミングに反した行動を常態としてしまったのだ。人間は規則を作ったが何人も生と死に本当の権利も義務も持たない。蟻が小川で溺れていれば葉を流しキリギリスが凍えていれば招き食事を分けるべきだとなぜ言えよう。羽のもげた蛾が落ちていても誰も拾い上げないし転げた蝉を埋める者もいない。いたとしても道徳観という人間の作り出した物によるだろう。人は道具を使った。人は立った。人は話した。人は危険な火に近づき…征服することを覚えた。優秀な遺伝子を残すとは本当だろうか。本当かもしれない。生を残そうとするのは本当だろうか。本当かもしれない。しかし私は生のプログラムがいつしか逸脱し破滅のプログラムへと変わっていったのではないかと思う。なぜなら生きることの意味を考えて答えを追求すればするほど脳内麻薬はどんどん減りゆき、精神もすり減る。自分がいる、いない。それぞれを仮定してカチャカチャとFor-Nextを適用するように思考を進めていくといずれも死に行き着くのだ。今までにあった過程とも不適合がない。そうするとそもそもあるもないも同じになる。死が魅力的になるわけではないが生が苦しくなったとき突然魅惑しだす。もういい、もういい、と逃げたくなる。逃げられない。人は欲で生きる、というのは、脳が幸せである、という方に変えるべきかもしれないと最近は思っている。脳が幸せになるためには、と逃れられないという条件のもと喘ぐ。「好き」を見出すのだ。死ぬまで「好き」に溺れてしがらみと上手く対応していくべきなのだ。太宰治のけれども、と同じだ。トカトントンを振り払うには「好き」に溺れるべきなのだ。森鴎外のように狂態は狂態であると最終的には突き放すべきなのだ。砂の穴にはまっていく前に穴を外から、落ちないぐらいの淵から眺めるべきなのだ。私も今こうして書いている間に悲しみから哀しみへと変わっていく状態に気が付いた。そんなものかもしれない。欲が生まれなければ生まれるまで休んでしまえ。鳴かないのなら鳴かなくていいのだ。ほととぎすは常に鳴いているわけではない。鳴かせる必要はない。鳴けば綺麗だと思えばそれで充分ではないか。満たされることはた易くは無いが刹那それを求めても構わないだろう。なので生きることにしてもみてもいい。これが結論である。最後に苦しみから逃げることを責めてはいけない。それが生のプログラミングだ。生は続く。





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