そう,こういうことなのだ。と思う。 おろしたてのヒールを履いて,坂道を上る。 真新しい靴の踵部分は,まだ皮が硬く,薄いストッキングを通して,付け根を苛む。 外反母趾の一歩手前の,足の内側と,内反小趾に歩み寄り中の,足の外側で, そっとそっと皮膚の一番外の薄い皮が寄っていき,まめとなる空間をこしらえつつある。 カンカンカンカン高く音を鳴らすのは下品だと,質が良くないと思うから, できるだけ上品な足音になるように,姿勢も歪んでしまわないように, 首の後ろから腰まで,1本の棒が入っているつもりで,歩く。 引き締めた口元は,本当は,凛々しさなんかではなくて, 痛みを内に内に追いやる強がりだ。 本当は,足の指も足の裏も踵も甲も,ふくらはぎも膝も太ももも腰も,全て限界。 もう,今すぐ座りこみたくて,こんなヒール,脱いでしまいたくて,たまらない。 けれど,大人の女性は,そんなことはしないものだから, こんなところで,そんなことをしてしまったら,きっと自分をずっと許せないから, 一人,部屋に帰って,呆然として,暴れたくなってしまうから,しない。 そう,今の私はたくさんの強がりでプロテクトされている。 大人になると,強がりなんて,たくさんあるのだ。当たり前のように,ある。 例えば,なんだか要領の得ない朝礼の訓話だとか。 どうも納得できない仕事上の付き合いだとか。 いやに省略が多くて,大雑把な依頼だとか。 逆に細かすぎてめんどくさすぎて,もはや矛盾してる注文だとか。 一方的にまくしたてる電話や,読めないファックスや,わけのわからないメール。 まじって,話を聞く一方でしかありえない上司との話だとか, 何回言ったって伝わらない後輩のふくれっつらだとか, やっぱりずっと話がうわっつらなままの同期とのお昼だとか。 だから,こそ,あの対話が,楽しいと思ってしまった。すごく良い時間に思えた。 ほどほどの付き合いとしての合コンで, なんだか釣り合わなさそうな相手と,やけに場馴れしたみんなの自己紹介。 こんな中で,こんなぼんやりした自分が,何を話して2時間も座っているというのだろう。 ぼんやりと,それでも少しは愛想良く見えるように,笑顔を浮かべながら, 「…さんと同じで,事務をしてます,……です」と明るめのワントーン上の声で, (つまり,業務用。あ,よりは,ちょっと上だったかな) 「今日は,宜しくお願いします」と言って,相手側をぐるっと見て, 目が合った。 なんとなく,優しげで,なんとなく,気になったから。その瞬間は,覚えてる。 まさか,こんな席で,私がこんなに会話を楽しめるだなんて,知らなかったんだ。 ずっと我慢してたんだ,と気づかされてしまうほど,楽しかった。 「そうなんですか!すごーい」と,お世辞でなく,言えるって,初めて知った。自分。 それが,戻れなくなる瞬間だった。ちょっとした運命の悪戯。扉が開いた。 なんだか,もったいないような相手との, あまりにも当たり前のようなお付き合い。 どこへ行くのも,楽しくて,どこへ行かないのも,楽しかった。 ただ,そばにいたかった。話を,聞きたかった。 私の,一挙手一投足が,こんなに注目されたことって,あっただろうか。 優しい,くすぐったい視線が,私の表面を撫でる。心地よい。 だから,そんな幸せを知ってしまったら,人間は,やわらかくなってしまうから, 一人だなんて状態に,大人の女性に,さぁ戻りなさい!と突然言い聞かせたって, 危なっかしくて仕方ない。 前とおんなじ道なのに,どこもかしこも悪路に思えて, やわい自身に,草も石ころも照り返しも,全てが突き刺して虐めてくるように思えて, 痛くて痛くて苦しくてたまらないんだけど, この道が戻れないとちゃんと分かっている程には,やはり年を経ていて, その自身の成長に,涙が出てきてしまう。弱い。よわっちい。嫌な。自分。 もしかしたら,単なる平坦な道なのかもしれない。 けれど,手放したのに,重たい体は,哀しみをめいっぱいに背負っているから, この道は,やはり坂道だ。 この哀しみも,いつかは脱ぎ去るように忘れ去られていくと知っているから, この道は,やはり坂道だ。 ああ,この道を上って行ったら,どこに着くんだろう。 どこに行きたかったんだっけ。前は,行き先なんて,求めてなかったけど, 今は,欲しいものが分かる。気がする。 行くしか,ないかぁ! |