彼女は焦っていた。門限は特に設定されてはいないが,用事が終わったら速やかに帰宅することを両親は期待している。そう,特に決まりなど設けなくとも,娘が守ることを知っている。だから,彼女は早く帰りたい。こんなことに煩わされるだなんて……。彼女は,これでもう何度目なのか分からない,しかし憤りを顕にすることのできない事態に,心の内で溜め息を吐いた。 それは,たいてい決まって放課後。いや,朝のうちのこともあるし,昼のこともある。つまりは,時間帯の問題では無いということ。むしろ,状況が重要なのだ。それは,その当事者を除いて,周囲に他の人間がいないという状況。よって,場所も,教室内であったり,部室内であったり,廊下であったり,屋上であったり,少し裏手に入ったところだったり,様々ではあるけれど,要は,人目につかないということが第一なのである。 何を当たり前のことを,といったところであろうか?どこかに,成文化しておいて欲しいものだ,と彼女は思う。言いたいことは,はっきりと言え。言いたいことは,100字以内にまとめろ。言いたいことは,1分以内で述べよ。…いや,違う。彼女が望んでいることは,そういうことではない。 言いたいことは,まず,相手がそれを聞きたいかどうかについて考えろ。言いたいことは,次に,言ってどうなるのかについて考えろ。そして,言いたいことを言うなら,相手に逃げ道ぐらい与えろ。彼女が憤っているのは,それら全てについてであった。 閉ざされている,と思う。ここは,彼のフィールドだ。いつの間に,踏み込んだ?いつの間に,取り込まれた?分からない。ただし,分かっているのは,今,ここで,彼女は,「負けている」,という,その事実だった。 「これ」と言って,相手が何かを差し出した。彼女は,上のようなことを考えていたので,相手が今まで何を話していて,どういう話の流れで,それを差し出したのか,知る由も無かった。だから,それが何なのかを把握するためには,それに目を遣るしかなかった。いやだ。今まで,省けていたのに。彼女の視界から,意識から,相手は確かに外れていたのに。 そこにあったのは,写真だった。比較的,遠くから,撮られたもの。そこに,人。…誰?彼女は思う。よく見えない。けれど,近寄ってまで,見たくはない。目を細めて,凝らす。 ……っ!彼女はまざまざと思い出す。屋上。数人の友達と。用具を運んで。笑い合いながら。これは,,,昨日の放課後のこと。それを,今,朝,なぜ,相手の手の中に,写真として,ある…?そんな彼女に構わず,相手は次を出してきた。 また。また。また。また。また。また。また。また。また。…もういいっ!要らないっっ!!! 彼女は息を吐いた。知らぬ間に,息を止めていたらしい。それを,相手に気取られなかったかが,気になる。落ち着け。相手がそんなことに気が付くはずがない。相手が見ているのは彼女ではない。彼女ではない,彼女を通した,何かだ。彼女が,侵されることなんて,無い。 もう,こんなこと,たくさんだ。彼女が悪いと言うならば,きっと,そう,彼女が悪いのだろう。世の中なんて,不都合だ。不都合だらけだ。知らない,こんな不都合な世界の生き抜き方だなんて。知りたくも無い。 この間,友達に言った。この間,大人にも言った。あまりにも,こういった連中のことが,嫌だったから。こんなことに煩わされたくなかったから。助けて欲しい,と思ったから。私は,あの人が,嫌だ。何それー,最低だね。なんとかあしらっちゃわないと。私は,あの人と,一緒にいられません。ほんとあの子には困ったものだねー。なんとかできないかな。それは,つまり「…でも,あなたなら上手くやってくれるでしょう?」ということなのだろうか。そんな風にしか聞こえなくなってしまった自身の耳を,彼女は呪う。もう,こんな耳,聞こえなくていい。 この間の奴は,理解ができなかったらしい。奴が思う彼女にしようと,戻そうと,躍起になっていた。何を見ていたんだろう?彼女に。夢なんて見ているから,そんなことになるのだ,と彼女は思ったが,言っても分からないだろうから,言わなかった。そう,彼女にだって分からないことがあるのだから,人間,何かしら分からないことがある生き物,ということで,イーブンなのだと思った。 分からない。ひとのどこに夢を見られるのか。相手と関わることなく,見られる,夢。けれど,それは,現実で近づいてしまったら,壊れてしまうじゃない?しかし,彼女は,気付いてもいる。これは,同属嫌悪?差異は,接近と遠隔。相手は,近づいていこうと,現実のほうを夢に近づけようと,していける。彼女は,では,夢を,現実に近づけていく…?ううん,それも,正確ではない。どちらかというと,そう,隔離。全くの別物として,扱う。どれだけ夢見た状況に近い現実が訪れたとしても,そこを変えていこうとはしない。したくない。だって,私は,こんなにも…分からないから。 どうして近づけるのだろう。あまつさえ,触れられるのだろう。眉を顰めても見えないって,逃げても近づいてくるって,嫌だと言っても聞こえないって,どういう心境なのだろう。そこが,分からない。相手が見えないって,どういうことだろう。こわい。怖い。恐い。私は,そんなふうになってしまうのが,怖い。恐ろしい。自分が,変わってしまう。変わってしまった自分を,相手に見られたくない。見せたくない。そんなことで,現実が変わってしまって,夢見ることも叶わなくなることが,こわい。いやだよ,そんなの。…彼女は,悲鳴を上げそうになる。もう,何も見たくない。もう,この目は,何も,見なくていい。 声を,堪える。相手が一歩,彼女に近づく。相手の,においがする。 「…だから,こんなにも君を愛しているから。君を,ずっと,幸せにするよ。僕は,君のために,写真を撮ろう。君は,ただ,それを見ていればいいからね?ほら,こっちを向いて。笑って。いや,うん,君に媚びは似合わないね。そんな表情は,他の誰にも見せなくていいんだ。僕だけが見られればいい。うん,いいね,その表情さえも,美しいよ。鬼気迫るっていうのかな?オーラが出てるよね。そんな君を,僕は一生そばに置く。分かったね?君はずっと僕のそばにいればいいんだ」 彼女は,淵へ,一歩下がる。かしゃっ。相手が更に近づく。嫌だ,このにおい。嗅覚も,要らない。 「あぁ,ちゃんと言葉にして言わなくちゃいけないね。愛してるよ。君をずっと大事にする。 結婚しよう。」 窓の向こうはグラウンド。目聡い,前の前の相手が,部活をしていて,そろそろ,教室内の彼女に気付いている。彼女に呼びかける声が,下から響く。相手の手が,彼女の頬に触れる。いやだいやだいやださわるなふれるな。肌の感覚なんて,感じたくない。 さぁ,あと一歩,来い。 「恥ずかしがらなくたっていいんだよ?君は,僕のものなんだから」 相手が,また一歩,彼女に近づく。手が離れ,指が,彼女の顎に触れようと,伸びる。相変わらず,地上から声がする。相手が,空いた手で,レンズを彼女の表情に向け,連写する。 今だ。精一杯,脅えた表情を作れ,私。 彼女は,腰を窓の縁に預け,そこを支点に,足で床を蹴った。お父さん,お母さん,ちょっと帰るのが遅くなります。お夕飯はまだ温かいでしょうか?味覚だけは,残したのだけれど。たべられなk 。 |